当時私は大学院の一年生。実験生活を始めたところ、山登りから足を洗って2年程度だったはずだが、どうしたわけか南アルプス南部の縦走を挙行した。正直よく覚えていないところも多いのだけれど、とてもドラマチックだったので書いておきたい。
1985年8月12日、重いリュックを背負って仙台の自宅を出たのが夕方、テレビでは日航機が行方不明だといっていた。東北新幹線の東京上野間が開業したのは1991年らしいので、上野から山手線で東京駅に向かったはずだ。そして、後にムーンライトながらになる大垣行き快速に乗った。サラリーマンが「どうも落ちたらしい」と言っていたのを覚えている。私はもちろん半信半疑だった。静岡駅で電車を降り駅のどこかで仮眠をとった。朝が来てキオスクのシャッターが開くと、新聞は特大活字で123便の墜落事故のことを告げていた。私は登山口に向かうバスに乗った。静岡から畑薙第一ダムまでは3時間ほどかかったが、車中は生存者救出の様子を告げるラジオ放送がノンストップで流されていた。123便が御巣鷹の尾根に墜落したこの事故は、「520人の死者を出し、日本の民間航空史上最悪の事故であると共に、単独機としては世界最悪の航空事故となっている。」(ウィキペディア)
山登りについてはよく覚えていない。テントを持って行ったとは思えないので、山小屋素泊まり自炊スタイルかなと思う。単独山行だったこともあって、何かあったらいけないと考え、ガスコンロのボンベを3本も持って行った(重たかった)。畑薙ダムから大吊橋の間で、なぜか登山サークルの後輩と出会った。一泊目は茶臼小屋だった。以降、聖岳、赤石岳、荒川三山と縦走して、椹島に下山したと思う。椹島から送迎バスに乗ったはずだが、何も覚えていないし、今回行ってみて何も喚起されない。ちょっと不思議である。記憶に残っているのは毎日見えていた富士山だ。お釈迦さまの手の上で踊る孫悟空のような気がした。ということは天気には恵まれたらしい。
もう南アルプスの稜線に立つことはあるまいと思っていた。高校一年の私は体力のある方ではなかった。夏合宿でバテてつらかった記憶が刷り込まれているのだろう。一日続くアプローチがこなせるとは思えなかった。東北の山を基準に考えると、山登りは幕営や山小屋に泊まるとしても自炊が当然だった。だが、近年はガイド・ツアーという便利なものがある。これなら行けるかも。M社のツアーに申し込んでみた。事務局様から参加をお断りする丁寧なメールをいただいた。いやいや縦走もしたことあるし→それは一体いつのことですか?→39年前ですけど→最近はどこを登ってるんですか?→筑波山です、でも南アでどのくらいの体力が必要か体感してますし、それに合わせてトレーニングしますから→まあしょうがないですね、といったやりとりがあり(潤色はあります)、5月〜7月とランニングと山歩きによる鍛錬を経て、椹島の再訪に至ったわけだ。
赤石小屋に二泊、中日に山頂往復という山行は天気もよく最高のコンディションだった。山小屋には我々も含めて3組のガイド・ツアーがいたようで、このシステムの定着を感じた。体力のなかった私が多少とも成長したのは歩き方の工夫を通じてであった。今回は食事付き小屋泊まりであり、荷物もそこまでではなかったとはいえ、1日目赤石小屋までの行程はこたえた。でも、一歩一歩を重ねていくうちに、自分の来た道を再確認するような思いを得た。まあまあじゃないのと。グループのお仲間が同年輩だったこともあって、もうしばらくは、70歳くらいまでは楽しい山登りを続けて行きたいと思った。便利なものはある程度使って。
参考
老化とは何か 今堀和友著 岩波新書新赤版297 1993/09/20 - いもづる読書日記